神様が教えてくれたこと
目次
スピリチュアル
今回はとてもスピリチュアルなお話をしていこうと思います。
最近、霊視をしない対話をする仕事を始めました。おかげさまで、とても好評をいただいて、たくさんの方とお話しする機会をいただいています。
さて、この対話をしようと思ったきっかけは魂のエネルギーのことを学ぶ中で、わたしたちの生きる環境はあまりにも厳しすぎると感じたからです。
自己肯定感をあげる暇もなく、人のために働き、人の目を気にして行動し、人の評価ばかり気にする日々。自分の本当の気持ちなんて置き去りで、そうやっているうちに自分の本当の気持ちすら分からなくなり、自分を押し込めて暮らしています。
そんな状況で自分の夢や希望なんてわかるはずもなく、自分を認める時間も取ることは出来ませんよね。
そんな由々しき事態を受けて、神様からメッセージを受け取ったので、お知らせしようと思います。
昨今、スピリチュアルな話は世間に認知され始め、次元の話や宇宙の話も認知度があがり、スピリチュアルな力に開花した方も多いと思います。わたしが占い師になったのは約8年前ですが、その頃とは全く状況の異なる世界になったとわたしは思っています。
その一方で、物質主義、現実主義もさらに加速し、成果のないものは認めないという人が増えたのもまた確かです。
その二極化の流れの中で、意識の統合が行われない状況はおそらく人類の危機とも言えるとわたしは思っています。
スピリチュアルが苦手な方は不快に思われるかもしれませんので、ご注意くださいね。
天照様
占い師になるよりもずっと前の話。まだわたしが20代の時に、岡山の最上稲荷にお参りに行きました。わたしは思い立ったらすぐに神社に行くタイプで、特に岡山の大きな神社である最上稲荷はお気に入りの神社でした。
その神社の帰り道。車で大鳥居をくぐってすぐのところで、気配を感じ、振り向くと、そこには大きな神様らしき人がいます。
優しい顔。白い服。着物というよりは作務衣のような服を着て、髪は短髪。声は響く感じでした。本当に気のいいおっちゃんといった様子。わたしは彼を見上げて、何を言っているのか聞き取ろうとしますが、声が響き、よく聞き取れませんでした。ですが、罵倒されているわけではないのは分かります。優しく何かを言っているといった感じでした。
それからというもの、神社に行ったときはもちろん、ふわふわと眠りにつく前に、時々姿を見かける時がありました。大きな姿。時に怖い顔をしていましたが、それも気にならないくらい、揺るぎない安定感を感じる人。きっと神様だと思っていました。
わたしには守護霊がいます。その守護霊は20代前半の頃に、急に祇園祭のお囃子とともに現れた白い狐の姿でした。のちに、じゅうと名付けたその守護霊は、わたしの霊視のパートナーでもあります。
大きな神様は、わたしの守護霊をよしよしとかわいがってくれることもありました。時に抱き寄せ、撫でまわしています。その姿はほほえましく、信頼関係があるのが分かりました。
話しかけても、じゅうに聞いてもその神様のお名前は分かりません。そもそも、じゅうだって、本当はどんな名前なのかは分からないのです。20年以上の付き合いなのに!夫に名前を付けてあげなよと言われたので、わたしがじゅうと付けたくらいですから。
ですが、その状況が急に変わる時がやってきました。
いつも通り、最上稲荷からの帰り道。目の前に現れた神様。その神様の真横に大きな石碑がありました。そこには「天照」と書かれています。わたしはその時は神様に全く知識がありませんでしたので「てんしょう・・・?」と読み、そのままてんしょうさんと呼ぶことにしたのです。
段々と響く声にも慣れ、何を言っているのかも分かるようになってきたころ、夫にいつも現れる神様の横に石碑があって「天照」って書いてあったのと話すと、夫は驚いて「それは、あまてらすって読むんだよ」と教えてくれました。ゲームが好きな夫はゲームに出てくるキャラクターとして知っていたのです。「たしか、神様の中で一番偉い人。女性の神様」
一番偉いかどうかは分からないけど、少なくともてんしょうさんは、男性です。その後、神様のことを学ぶ中で、天照大神が日本の総氏神で太陽神であることを知りますが、相変わらず、てんしょうさんは時々現れ、じゅうさんと戯れて帰っていくのでした。
愛とは何か
ところでみなさんは意識のレベルというものをご存じでしょうか。
「パワーか、フォースか」という書籍の中で提唱されたもので引き寄せの法則の説明などでも用いられる表があります

普段どのようなこと感じながら生きているかによって人の意識レベルが決定され、その感情のある場所によって生きる課題などが変わってきます。
もう一つの真理として、全てのものは振動してるというものがあり、人ももちろん振動しています。上記の表で言うと「ログ」と書かれているところが振動数と思っていただければいいです。
振動数が少ないところは感情が大きく揺さぶられ、安定しません。ですが振動数が多くなればなるほど、細かく振動し安定するようになってきます。ですので、振動数を上げることで心が安定し、周りのことを考えたり、周りを幸せにできるようになるということです。
「勇気」あたりから人の心は安定し、意識レベルが高いという状態と言われています。みなさんは自分がどのあたりにいるのか、自分を客観視してみてくださいね。
わたしは、この表を知ってから
「生きている間に愛の振動数にたどり着きたい!」
と思っていました。なぜなら、わたしの人生そのものが愛を探しているような旅路だったからですし、「真実の愛」というものにも大変興味がありました。きっと素晴らしい世界なんだろうなと勝手に想像して、愛の探求を始めたのです。
ですが、愛というものはとても難しいものでした。相手を思うことは愛なのか。そう考えて相手を思いやってみたら
「こうなってほしい」という期待でがんじがらめになります。
愛はすべてを許すことなのかと思って、相手の思い通りにさせたら、「無関心」と何が違うのか分からなくなります。
それなら、愛は守り抜くものと相手の言うとおりにして、全て従っていたら自分を愛せなくなります。
愛とは何か。わたしの苦悩は続きました。
はなさかじいさん
わたしが愛について考えて数か月。今から2年ほど前の話です。
子供の音読の宿題を聞いていたら、「はなさかじいさん」を子供が読んでいます。その一節にわたしは大きな違和感を抱きます。
「意地悪なおじいさん」
意地悪なおじいさんと決めつけてしまうのはとても乱暴だし、絶対悪なんて存在しない。子供に読ませてはいけない!!
そんな主張をして、そこに一緒に音読の宿題を聞いていた夫と大喧嘩になります(笑)
わたし「絶対悪は存在しない。人は生まれながらにして悪ではないし、全てに陰陽があるから、意地悪なおじいさんと定義している時点で教育上よくない」
夫「人のものを盗ったり、人の利を自分の利にしたりする人はいる。それはいけないことだし、そういうことばかりの人もいるだろう」
この意見のぶつかり合いは平行線をたどり、結局、なぜ、そんなに突っかかってくるのかと叱られ(笑)、その場は終了。
児童書というのは、徹底的に嘘はいけないと教えます。オオカミ少年しかり、さるかにがっせん然り。子供の頃に卑怯なことはしてはらないと徹底的に教えるんですね。人は一人では生きられませんし、集団で生きるものですから、人として必要なスキルです。
そのためには絶対悪も必要なのです。今ならわかります。ですが、愛を追い求めるわたしにとって、愛が不平等に感じて気持ち悪かったのでしょう。愛は平等でなければならない。そんな思い込みに支配されている時でした。
ちなみに児童書はこのほかに勇気をもって行動すること、相手を思うことなども切に訴えるものが多いですね。とても大切なことですから。
とうとう気付く
愛を探し彷徨って、色々な体験をしていく中で、段々と愛への思い込みを捨てる作業が始まります。
愛は許すもの。もちろんです。愛は許すもの。ですが、それはすべて受け入れる前に怒ったり、嘆いたり、ののしったりすることもあるということ。受け入れ許すのが即座でないと愛ではないというのは思い込みです。最終的に、理解できないとしても罪を憎んで人を憎まずと帰ってくること。
何となく、すぐに許すし、怒らないし、批判もしない。それが愛だと思い込んでいました。だけど、神様も怒ることあるし、キリストだって、信用していない弟子はいましたし、お釈迦様だってすべてを救うわけではありませんでした。
愛は大きいとか小さいとかある。これも思い込みでした。偉大な愛、無償の愛は何だが大きくてエネルギーが強いと思い込んでいましたが、サイズではありませんでした。
愛がなくなるとか、冷めるとかいう言葉。愛はなくなるとか冷めるのは愛ではなくその人の「気持ち」ですから、愛に引っ付くわけではありません。気持ちが変わっただけ。
こんな風にして、自分が愛だと思っているものや、世間一般に愛と言われているものを一つ一つ検証して、これは愛なのか考えるようになっていました。愛には色々ある(家族愛、無償の愛、自己愛など)と思っていたのもそうです。愛が生まれると思っていたのもそうです。
一つ一つ、本当はどうなの?と問い、納得するまで考える作業を続け、ある日スーッと頭の中が静かになったのです。
そして一つの考えがスッとおなかの中に納まるのを感じました。それは
「愛はすでにある。なくなったりどこかに行ったりしない。いつも目の前にある。わたしたちは愛そのもの」
どうして忘れていたのだろうと思うくらい自然に思い出した感じです。愛に憧れて、愛に恋い焦がれて(笑)、愛を探求していたので、あまりのあっけなさに、否定してしまいたいくらいでした。
それくらいに当たり前に静かに愛があります。とても静かで怖いくらいでした。愛は偉大でとてつもなくすごいエネルギーで、理解すれば世界のすべてが変わる。それくらいに愛を信仰していた自分に気が付きます。
かのアインシュタインも「愛こそ最大の力」という名言を残していますから、それはとてつもなくすごいエネルギーだと思うのは当たり前です。ですが、ただ静かに常にそこにあり続けるもの。それが愛だとはたと気が付いてしまって、わたしは燃え尽き症候群のようになってしまったのです。
ただ、これも大きな思い違いです。
さて、先ほどの表に戻りましょう

喜びの感情は静穏です。
まさにわたしの振動数はそこに達してしまったのだと後から表を見て思ったのです。
その静穏はつまらないと感じるほどに安心感に満ち溢れており、何の心配もいらないのです。だって、愛はあると確信できているのですから。探求するものでもなければ、誰かから奪い取るものでもない。
当たり前の平穏。燃え尽きたわけでもつまらないでもなく。ここが元からいた場所。やっと帰ってきたのです。
思えば、しんどかった10代。何度も死のうと思って、生まれなきゃよかったと悔やんで、自分を傷つけていた頃。
早く幸せになりたくてしょうがなかった20代。人の幸せなんて考えたこともなかった。自分のことで渇望して、全てを他人のせいにしていた頃。
幸せを手に入れた30代。だけど、思考の癖が抜けず、自分を苦しめる思考ばかりにふけっていた前半。それから師匠に出会い、占いに救われ、神の道を知るほうへ舵を切り、たくさん勉強して占い師になった頃。
そして、40代。真理を探究し、世の中の仕組みを学び、愛に飢え、愛を知る旅を始めた頃。そして今。
恥に落ち、色々な感情を体験するべく始まった振動数の旅。何度も寄り返しをしながら、少しずつ上がり、自分の悲しみから、自分の理解へ進み、人の理解へ足を踏み入れ一歩一歩進んだ35年だったなと思います。
自分本位を捨てきれないのは今も変わりませんが、頭の理解は進んできていると感じる日々を送っていました。
大祓祝詞
2025年の初頭から、神様から言われて毎日祈りをささげています。
お風呂で身を清め、瞑想をして、10分以上祈りをするよう申しつけられたので、どのように祈るのが集中できるかなと考えた結果、大祓祝詞を上げてみることにしたのです。
10分って簡単に言いますが、何もせず集中するのは今のわたしには無理です。すぐに自分の妄想にふけってしまうので、強制的に神様のことを考え、感じ、祈ることをするにはどうしても必要なものでした。
神様に祈りなさいと言われたとき、わたしはバカなので(笑)
「何について祈ればいいのですか?」
と聞いたのです。ぶしつけですし、不勉強で申し訳ないのですが、祈るとは何か目的がないとできないと思ったのです。
すると神様は
「水。清い水があることを奇跡と思えよ。人は清い水がなければ生きない」
と言われたのです。大いに納得せざる負えないですから、分かりました!と毎日水に感謝しました。
偶然にも大祓祝詞にも水は出てきます。人の罪穢れを水で押し流し、海に行き、穢れを払います。
毎日毎日祈ります。祈る時、何かリズムがあると良いと言われたので、家に偶然あった木の太鼓をたたきながら大祓祝詞を読みます。
慣れて、スムーズに読めるようになった頃。
ふと気配を感じて、横目でちらりとそちらを見ると
天照様が立っていました。
わたしの小さな書斎に収まるわけがないくらいいつも大きなお姿ですが、その日は小さなサイズで!
子供くらいの身長です。
わたしはびっくりして、一瞬太鼓をたたく手を止めてしまいそうになりましたが、頑張って続けます
すると脳内に直接響く声で語り掛けてきました。たった一言
「愛は水と同じ」
わたしはその言葉を頭の中で転がします。
すると、本当だね。これなら人に伝えられそうだ!と思ったのです。
だって、水なら、みんな毎日見ているし、すぐそこにあるし、わたしたちの70%は水だし、地球は水の星だし、まさに水がないと人は生きられない。
その瞬間、わたしは完全に手も口も止まり、鳥肌とともにすべてのピースが繋がるのを感じたのです。
まさにヘレンケラー状態
「みずー---!!!!」
です(笑)
じつは、愛のことが分かる前から祝詞の習慣は始まっていて、水について祈るように申しつけられて、毎日毎日、お水があることありがとうございます。今日も海の水がきれいでした。水は循環して、水に満たされた星でした。なんて言っていたのです。
これの水の部分を愛に変えてみましょう。
愛があることありがとうございます。今日もたくさんの愛がきれいでした。愛は循環して、愛に満たされた星でした。
何の違和感もないし真実です。
わたしに「気付け、はよ気付け!」って神様が後押ししてくれていたように感じて、
「神様ー----!!!」とも叫びました。
こうして、わたしは愛についてとこの星の真実の姿に気が付いたのです。
探求こそが人生
愛に気が付いて、喜びにたどり着いて、静穏が手に入っていいなーなんて思っている人もいるのではないでしょうか。
ところがそうはいきません。わたしは次の壁にぶつかり苦しんでいる最中です。でも、それも大きな喜びです。
だってね、ドラマをみるとして
登場人物みんな仲良しで、毎日何も起きなくて、ただ暮らしているドラマ見たいですか?
主人公が苦しんだり、悲しんだり、でも最後は成功して笑って、ハッピーエンドだったね!ってドラマ良くないですか?
その時の主人公の苦しみが大きければ大きいほど、共感したり、それはダメだよって学んだり、わたしだったらこうすると考えたりして、望み通りの幸せが訪れた主人公を自分のことのように喜ぶことができるんですよね。
感情を揺さぶられて、それについて考えたり、学んだりするのが、結局一番の喜びなんです。
頑張った末に手に入れる幸せほど蜜の味。これは真理です。
ところでみなさんはどこのエネルギーですか?

わたしはプライドだわ・・・・と思って落ち込むのではなく、一つ上の勇気に振動してみませんか?
深い悲しみの方もその体験をバネに立ち上がってみませんか?
苦しいところに留まるのもまた人生。
どんどん突き進んでいくのも人生。
人生はドラマなので、事件が起きます。悲しいこと、大喜び、幸せ。交互にやってきます。
これも真理です。
人生の目標を愛の振動数にするのもお勧めですよ。
どうやって自分の振動数を上げるか知りたい方は、一度セッションを受けに来てくださいね。
一緒に楽しくステップアップしていくことお約束しますからね
💧 形を変える — 水が器に合わせて形を変えるように、愛も人や状況に応じて形を変えます。恋愛、友情、家族愛…どれも愛の一部ですね。
🌊 流れる — 水が絶えず流れるように、愛も与えたり受け取ったりしながら循環します。
💦 必要不可欠 — 水なしでは生きられないように、愛も人にとって生きる力になるもの。
🌧 時には荒々しく — 穏やかな小川のように優しい愛もあれば、嵐のように激しい愛もあります。
❄️ 冷たくなることも — 水が凍るように、愛も冷たくなることがあります。でも、温もりを与えれば再び溶けて流れ始める。